ことばで紡ぐ 風景の練習 Practicing Landscape

投稿日:2021.05.16

企画展


 
 
かんのさゆり・菊池聡太朗展「風景の練習 Practicing Landscape」をご覧いただいた方々から、展覧会や作品についてお寄せいただいたコメントをご紹介していきます。ページは随時更新します。
 

(敬称略)
伊藤トオル(写真家)/志鎌康平(写真家)
松﨑なつひ(美術館学芸員)/千葉真利(Cyg art gallery キュレーター)
佐立るり子(美術家)/ パルコキノシタ(現代美術家)

 
展覧会概要
 


 
 

2021年5月16日更新

 
写真家・伊藤トオル

まずタイトルの「風景の練習」が面白い。風景を練習するとは?そもそも「風景」とはなんなのか。写真家には現前する対象との情緒的、かつ身体的な関係性の中で、どう世界を切りとるかが全てだ。情緒的とはポスト近代以降のもので比較的新しいが、身体的なものはそれ以前から存在する。レンズの選択もその一つで、どの焦点距離のレンズを選ぶかは対象との距離感に直接関わるし、距離感とは当然、情緒に強く働きかける。かんの氏の作品は、その問いを喚起させるものだった。展示作品はニュートポグラフィックスの系譜にあるが、「住宅」が写った作品群は、独特な距離感があり強く惹きつけられた。標準系のレンズを使用している効果ももちろんあるが、それだけでは無い気がして探っていると、写真に写る壁や土などが有機化し蠢き、言葉に置き換えられていく感覚におそわれた。おそらく言語化されたものは、集合的無意識の中で生きる私(私達)の、社会に対する問いかけだ。写されたそれら「住宅」はその時、はっきり「風景」として私の前に現れた気がした。菊池氏のインスタレーションは、写真の視点から見た。かんの氏の作品は、読み込むことで言語化されたが、これらの写真は、声そのものだ。コンパネで再現された「ウィスマ・クエラ」の周りを、四角や丸で切り取られた窓越しに「向こう側」を見ながら歩くと、風景は消えたり現れたりし、まるで幻のような錯覚に陥り、私はカメラオブスクラの中にいる気になった。これらの仕掛けは、プリミティブな感情を呼び起こし、ロシア・フォルマリズム風に言えば、「何の写真か」より「写真たらしめている何か」を問うていた。二人の作品は私の中で対極にあるが、共通しているのは、写真において「風景」とは、初めから在るのではなく、写真家の眼を経て、後発的に立ち現れるものだった。
 
 

2021年3月25日更新

 
志鎌康平(写真家)

かんのさゆり「New Standard Landscape」

かんのさんが撮る写真には嘘がない。普通の風景を撮っているようで、実はそこに見えない物を映し出している。
表層から剥がれていく幾つものレイヤー。
たくさんの嘘と事実と生活と、この世の中に孕んでいるたくさんの事実がそこには映っている。
かんのさんはたぶん今日も、カメラという機械で風景をまさぐりながら冷静なその目で定着させていく。
 
 

2021年3月20日更新

 
松﨑なつひ(美術館学芸員)

 ウィスマ・クエラ。私にとって、行ったことのない国の、耳慣れない異国のことばの響き。
 それは、ある建築家が自邸として建て、彼の死後も人々が住み続けながら増改築が繰り返されてきた特異な家の呼称だという。菊池聡太朗はこの家に実際に滞在しフィールドワークを行った。滞在時の記録写真やものを用いて、杉村惇美術館の一角に菊池が今回構成した「ウィスマ・クエラ」は、展示室の窓から見える塩竈の風景と、展示空間を交点として自然と重なるように構成されていた。私が本展を訪れたのは、午後2時前後だった。菊池が自ら体験した場所の記憶を塩竈の地へと移/写したこの展示空間を、簡潔な説明書きを手にして行ったり来たりする。そのうちに、窓から入る日の光も、少しずつ傾いていく。変化する光と影の中、菊池を介して伝えられる見知らぬ場所の温度、湿度、光や匂いや音、そこにいる人々の気配が、だんだんと私自身の体験となっていく。他者の経験をこのように感じとることができる驚きとともに、数日を経た今も、ふしぎと心地よくそのときの感覚が身体に記憶されている。
 一方、かんのさゆりの写真は、仙台近郊、石巻、閖上、女川などの沿岸地域で撮影されたというが、そこに写されているのは、必ずしも私たちがこの10年の間に幾度となく見せられてきた「被災地」らしい風景ではない。むしろ、全国どこにあってもおかしくない、ハウスメーカーによる量産型住宅が行儀よくならぶニュータウンの景色のようにしか思われない。 日々の生活の中で、あるいは沿岸部を訪れて、いかにも整然としたこの手の住宅地を目にするたび、湧き上がる違和感に、諦めに近い気持ちでフタをしてきた。人々が生きていくための、これが現実なのだからと。そんな風景をかたちづくる家々を、同じく量産型のデジカメを使って、かんのは否定とも肯定とも違うまなざしで淡々と撮り、丁寧に額装し、手間をかけて宙づりに展示する。とつぜん客観的なものとして現れた家々の姿から、あの違和感が、逃れようもなく、これが、「今」「ここ」の風景なんだよ、と、ふさいだフタを押し開けて迫ってくる。誰かの、私たちの、故郷かもしれない風景。ありふれていると見なされるがゆえに、守られることもない、もろく可変的な風景。
 行ったことのない場所の見たことのない風景を自分のこととして「体験する」ことと、日々の生活の中にあって無意識に直視することを回避してきた風景を、あらためて違和感をもって捉え直すこと。菊池とかんの二人の作品を同時に鑑賞することで、全く異なる風景へのアプローチが引き出され、そこにこの展覧会ならではのダイナミズムが生じているのではないだろうか。ぜひ、ひとりでも多くの人がこの場所に身を置いて、眼だけでなく体中のすべての感覚を開いてみてほしいと思う。(文中敬称略)
 


 

2021年3月6日更新

 
千葉真利(Cyg art gallery キュレーター)

かんのさゆりさんの展示室には、整然と写真が並んでいた。映るのは、一見無味無臭のようにもみえる真新しい住宅街や工事現場。短調で直線的な風景にも思え、整然としすぎていて少し不安になる。知っている気もするがよそよそしくて、歴史を思わせない。けれども、微かに人の影を感じる。きっとここでまた住む人の歴史が紡がれる。一度脱臭されたかのようにも思える風景は、人が住まい暮らしていくことで、またその土地の匂いを纏うのだろう。そんな思いを巡らせた。
菊池聡太朗さんの展示室に入って、まずどこかに迷い込んだかのようだった。ひとつひとつの作品をじっくりみる前にぐるりと展示室内に現れた構造物のなかを探索した。どこか見知らぬ土地の佇まいを感じる。ひとつひとつの作品を見ていくと、建造物の一部あるいは風景の断面のようなイメージが浮かんでくる。なぜか懐かしいようにも感じる。断片的に見えるが、その裏側の物語に、はるか遠くの土地に、想像が膨らんだ。

「風景の練習」という展覧会タイトルと、この二人を同時に、そして対比させてみせることは、刺激的だった。知っているような風景に少し違和感を覚え、見知らぬ風景にどこか懐かしさを感じた。
自分の前に立ち現れる風景に何を思うか。ある「風景」をみて、何を感じるかはみる人のなかに蓄積されたものによるところが大きいのだろう。二人の作家が表した「風景」を通じて、その土地に、そこに住う人に、思いを馳せた。
 


 

2021年2月28日更新

 
佐立るり子(美術家)

 「風景の練習Practicing Landscape」という感覚的な題名に思いをはせる。「風景」は日本語では景色の他に、ある場面の情景やありさまという意味もある。landscape、scenery、scene。言葉とは何かを指すには不完全であいまいだが、思考のはじまりでもある。
 かんのさゆりさんの写真も、菊池聡太朗さんの展示も、ある人の目や人生を通した景色と情景と感じた。例え同じ時に同じ場所に立っていても、人は同じものを見て同じように感じることはないのかもしれない。時間や場所だけでなく、そうした個々の体験としての風景が、いくつも積み重なっている状態が「風景」の「練習」であり、この展示もそのひとつなのだろう。
 かんのさんのきれいに整列しながらも宙ぶらりんに並んでいる写真、真新しい買ったばかりのブルーシート、仮設でありつづける意志すら感じる展示。そこにかんのさんの意識によって切り取られた景色が淡々と存在している。
 菊池さんの展示は、時間と場所を越えた本人の記憶がつなぐ情景を建築という視点を中心に作り出しているようなので、言葉を頼りに進む。01からはじまり、13までつづく作品に付けられた題名と説明。説明のない作品やものがいくつかある。そのあとに続くaからwまでの写真につけられた日付と言葉。それらを印刷されている順番に辿っていくと菊池さんの思考が徐々に形となり会場の風景と重なっていく。すると、wのあとにもういちど02があらわれ、先ほどの説明とは違う、日付と何かの物語からの引用を思わせるような文章があり、この情景を客観的に支えている。
 変化しないものや確かなものなどひとつもないと、何もかもが物語っているのに、人は変わらないものを求めたり、それがあるようにふるまうのはなぜなのだろう?震災でも、新型コロナでも感じられた、相反しながら常に共存する、何かを維持しよう、取り戻そうとする意識と、決して戻る地点などないという意識とが、作品を通して感じられた。
それを示せることこそ、美術の可能性なのかもしれないと思う。
 
 


 
 
パルコキノシタ(現代美術家)

かんのさゆりさんの作品に対してのコメントです。
そこは確かに被災した土地で、焼け野原のように荒涼とした土地だったはず
見るのも辛い悲しみと追悼の聖域だったはず
死んでしまったあとの来世にはどんな世界が見えているのだろう、
人物の一切写っていない、出来たばかりの真新しい住宅の風景写真が連続しているが、まだ、、
よく見えない
命の終りは新しい生命の始まりかもしれないし、再スタートは切ったものの
まだそれはとてもぎこちないもので未完成に見える。だから風景の練習なのか
1000年に一度の災害で見たくもない風景をみてしまって
10年が経ってまた今も今しか見えない風景を目にしている
復興と言ってももう元には決して戻ることのできない現実が悲しさを増幅させると
それでも練習を重ねて新しい風景を作ろうとしている人にかすかな希望の陽光を感じる

菊池聡太朗さんの作品に対してのコメントです。
絵描きは普通紫外線を嫌がるので、太陽の光をいやがる、でも会場の中は外から入る光にあふれていた。
杉村美術館は意外と窓が多く時間帯によって光が明確に常に変化する、
絵画泣かせの空間かもしれないけど
朝一番に会場へ行って明るい空間で作品を見てたら気分が良いので長居すると決め込み、
思わず会場にしゃがみこんでゆったり作品を見ていた。
杉村美術館展示室は、天井も壁も床も真っ白で、まるでインドネシアのモスクを思い出させるので
僕もイスラムの信者のように床に座り込んでゆったりしながら作品を見ていた。
建築/美術作家の作品は時間帯によって変わる光を意識した構成になっていて
午後2時に見た時の光の向きと作品や、夕方の西日に照らされた時の作品が象徴的に見えるように
意識された展示になっていて、自然光を味方につけたその作品はなんか絵画や写真作品よりも
神様に祝福されているようにも見える。
未完成ぽく貼られた壁紙や写真、作りかけの部屋のような木枠と合板。
それもまた、刻一刻と変化していく光の中で変化し続けて
何気に受動的に能動的に変化していく作品なんだよね。
風景の練習という言葉以外思いつかなかった。
出来るだけ天気の良い日に、時間帯を決めて見にいくことをお勧めします
「朝」「午後2時」「夕方」