画室の韻律

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  • ※以下の内容は、杉村豊名誉館長により著されたものです。
画質の卓
作品名
画質の卓
制作年
1953年(46歳)
サイズ
F80(H1120 x W1455mm)
技 法
油彩

戦後フランスで流行したフォーヴィスムの影響を受けて、洒落た雰囲気の画面構成になっていますが、画材の一つ一つの存在感は、しっかり描きこんでいるので、画面が荒くなっていません。レモンと黒縞の花瓶に挿された枯れたヒマワリと、描きこまれた牛の頭蓋骨が主役でしょうが。前面の曲線の多さを、バックの窓枠と机の下の支えが、奥行きを作っています。全体として抑えた色調のなかで、左のレモン一点にあざやかな色彩を置いて、バックのドアの引き手の真鍮、その下のレモンの色が映ったような窓枠とグラスの黄色と、ホヤの半分に背後の窓枠を透かせた黒いランプが、この部分だけで、別な絵画的空間を作り上げています。その上で、後ろの黒い縦縞の花瓶、枯れたヒマワリ、牛骨の脂のにじみ、といった要所に淡い褐色をちりばめて、新聞紙、頭蓋骨、窓枠の白へと、グラデーションしていきます。一方、机に敷いたガラス板には、個々の画材の姿が映って、特に机の右端には映った窓枠を描きこむことで、フォーヴィスムの表現の荒々しさを使って、板ガラスの透明感と硬さを表現した細部の具象性が秀逸です。
16,7世紀の絵画黄金時代のオランダでは、「静物画」は「ヴァニタス」(「空虚」)と呼ばれて、静物画にはなにかしら死を連想させるシンボルを描くべきだとされて、後のセザンヌやピカソの牛の頭蓋骨にも、影響を与えたようです。
確かに惇が描く素材には、古いランプや壊れた時計といったガラクタが多く登場しますが、惇本人の受け止め方はヨーロッパ的文脈とは無縁であったようで、惇の口からヴァニタス的信条や衒学的教訓は、聞いたことがありません。
ちなみに、戦前には惇は一人で旅行に出ていたそうですが、45,6歳ごろから、子どものいる生活に慣れると、「一人では寝れない」との強迫神経症的言動を見せて、東京の展覧会には妻子を連れて上京していました。ただこれは、自分が絵に集中できる「自分の環境」をこわしたくないための、自己暗示だったようです。最晩年、糟糠の妻の急死後、「一人で寝れない」といい出したので、「私には手に負えないので、明日、精神科に行きましょう」といったところ、翌朝「よく寝れたよ」とニコニコと起きてきて、二度と同じ事は口にせず、むしろ前より達者に画業に打ち込んでいました。
ここで改めて本作品を見直すと、枯れたヒマワリは活き活きとした生命感まで見せており、牛の頭蓋骨も頑丈そうな前歯と奥歯の歯並びで、レモンの黄色に対抗したアクセントになって、画面構成のバランスをとっています。惇の眼は古いランプや枯れ花や頭蓋骨からも、その形と色の美しさの生命を読み取っていたようです。

石膏とランプとモデル人形
作品名
石膏とランプとモデル人形
制作年
1960年(53歳)
サイズ
F30(H910 x W727mm)
技 法
油彩

モデル人形、美学生にはおなじみのラボルト石膏像、卓上ガス灯とシンプルに並べて、斜めから描いています。硬い木の質感、合成樹脂製の人形の支柱、石膏、真鍮のガス灯支柱と曇りガラスのホヤが、折り重なったときの質感の違いを描き分けるための習作のようです。練習とはいえ、奥のモデル人形は、動きをつけるように、早い筆で乱暴に色を付けています。片や中央の白とグレーの薄濃淡で造形した石膏像は、肌理の粗い古い石膏の質感を追いかけて、乾いた下塗りの上から白を重ねて、実際以上の巨大な絵画的質感量感を獲得しています。構図的には机の端を思わせる下のL字の線ですが、実際の机の縁にしては、素材が端に寄りすぎていますので、絵画的落ち着きのためにひかれた線でしょう。この一見無骨な表現に彩りを持たせているのは、右手前の真鍮製のガス灯の支柱と、薄い絵の具で描かれた透明感を見せつけるガラスのホヤの質感表現です。ここを起点に、ガス灯の台の白い大理石の厚みと重さは、肌理の粗い石膏像の土台との無意識の比較をうながして、見る者に大理石の重さと冷たさを想像させるように誘いこんでいます。習作ながら、目の揺らぎの連鎖を巧みに使った、惇芸術の「幻想的真実性」の基本技法が集中して見えるので、本習作を展示しました。

人形のある机
作品名
人形のある机
制作年
1966年(59歳)
サイズ
F80(H1120 x W1455mm)
技 法
油彩

展覧会用惇作品では、毎回の絵の題名に特に文学的な気遣いをしている素振りはみえず、いつも作品が完成して荷造りして搬送業者を呼ぶ直前になって、思い付きのように題名をつけていました。西洋の静物画にはどこか寓意性が付きまとうのに対して、惇作品は、そうした思い入れとは遠いところで描かれていたことの、一つの証左でしょう。そこで、多くその時の主役になった素材が、作品名になる確率が高い法則からみると、今回は「机」が主役のようです。いつも画面を下支えする脇役に、今回はじっくり取り組んでみた感じでしょうか。この机は、もともとは冷蔵庫やクーラーを運搬するための業務用の荷箱ですので、あくまでも機能重視で表面も荒削りで、支柱も支えも頑丈さだけを目的に組み立てられています。その機能美が、惇にはかえってフォービスム的な骨太な本質的画面構成を連想させたようで、彼は気に入って愛用していました。本作品でも、左の側面の入り組んだ木組に始まって、分厚い板の切り口や荒々しい板の表面を、触覚的手触りにまで迫る描写で美しく描きこんでいます。机の左に2体並んだマリオネットの前には、黄色いコップに入った指人形の頭部が無造作に差し込まれ、賑やかさを演出しています。右側では、陶器のジョッキには騎馬が描かれ、古いランプとガラスのコップに挿された雛菊が、地味ながらきれいな色彩で、画面に落ち着きを呼んでいます。描きたいものを描き込みながら、それを中心に、全体に筆の勢いと色彩の配分で破たんなく画面を構成してしまう、職人芸の技の冴えが見事です。

ブロンズの首
作品名
ブロンズの首
制作年
1967年(60歳)
サイズ
F80(H1120 x W1455mm)
技 法
油彩

圧倒的な重量と存在感を見せるブロンズの少女の首が、ガッチリと描きこまれて、透明なクリスタル・ガラスの水差し、青と黄色の丸いチーズの容器とパイプが前に並んで、後ろには赤い信号灯と酒瓶コップ、離れてホヤ無しのランプの油壺が並びます。前後2段に画材を並べた単純な構図ですが、強大な少女の首のボリュームを、信号灯の赤いホヤをバックにしたガラスの水差しが受け止めて、そのあとは前段の右にのびた陶器のパイプの吸い口、後段右端の油壺の火芯ネジまで、右にフェードアウトしていく構成で、まさに「存在と空間」の絶妙なバランスが、スケッチブックののぞく白い机の上で、展開しています。色彩は、ブロンズの黒褐色と、土台の茶色、信号灯の赤、チーズ容器の青と黄色が、これまたバランスよく配置されて、机の白と、競いあい映えあっています。言葉にすると単純な静物画にみえますが、何とも迫力のあるブロンズの首が、ただならない気配を漂わせて、絵に迫力を生んでいます。実はモデルになったこのブロンズ像は、惇が敬愛していた彫刻家・安田周三郎(惇の一歳年上で、東京美術学校の同窓。日展評議員・安田財閥創始者の安田善三郎の四男・オノ・ヨーコの伯父・横浜国大教授)の作品でして、台座も含めた高さは13.5cm(首から上の原寸は8.8cm)です。水差しの高さを30cmとすると、描かれた首の像は3倍近く拡大されていることになります。浮世絵の「大首絵」を意識したとは聞いていませんが、安田周三郎の厳格な造形力を絵の中に取り込むにあたって、込めた気迫がこの大きさに広がったのでしょう。ついでながら不気味に白い机は、大柄な惇が自分の身長に合わせて出入り大工に作ってもらった塩竈時代に使用していた風呂桶を、白く塗装したものです。「付喪神(つくもがみ)」(古い器物に霊が宿って誕生する妖怪)ではないですが、惇の眼には、こうした日本人の古くからの幻想力の原型になるような目の構造が、あったのかもしれません。この作品は、惇が描く「幻想の真実」を代表する作品と、多くの目利きが評しています。

閑春
作品名
閑春
制作年
1971年(64歳)
サイズ
F80(H1120 x W1455mm)
技 法
油彩

左側の白い丸い笠の真鍮製のランプと緑の表紙のスケッチブックと緑の鉛筆とパンジーが挿されたガラスのコップが、しっとりと静かな存在感を見せているところが、春なのでしょうか。左側の古いアコーデオンにもたれかかった人形と時計が、左の静かさに対して、ややにぎやかです。80号の横画面の左右を、まるで別の絵であるかのように、筆遣いを変えて表現しています。中心にそこだけ光があったようにきれいなパンジーを置いて、鉛筆・スケッチブックから、人形のズボンと服から麦わら帽子への色の流れと、白いランプの傘と麦わら帽子の黄色の色の配分で、アトリエの浅い春の幻想を統合しています。単純な画面構成に見せながら、背後の壁と机の上も、人形の前は明るく、ランプの後ろは暗くて、微妙な光と影と色彩を配置とともに、左右違った絵のトーンを、ひとつの光景にしています。この複合技が、単純な画面に、深い奥行きのある複雑な幻想性を浮かび上がらせています。一方この夢のような光景を、奥のアコーデオンと右端の古い時計が、リアルな重量感で画面を引き締めます。この複雑な構成の画面を、ひとつにまとめているポイントは、一筆でさりげなく描いてあるスケッチブックの閉じ紐です。冷たい春のアトリエにも、ここだけちょっと春の人の気配がのぞいて、画面に動きがうまれています。この作家は、いつも力強い剛直さを押し出した画面作りをするひとなのですが、一方こうしたさりげない小技も引き出しにたくさんあったひとで、これを狙い澄まして効果的に使うことで、画面にいきなり生気を孕ませたり緊張させたりひとつにまとめたりする、魔法使いでもありました。多用すれば小賢しさが作品の品位を落としかねない危険な技ですが、重い真鍮のランプや黒いアコーデオンと同じ比重で、この閉じ紐は画面に力を与えています。画面に書き込まれた惇のサインも、画面構成上では重要な位置をしめていました。

地球儀のある静物
作品名
地球儀のある静物
制作年
1975年(68歳)
サイズ
F80(H1120 x W1455mm)
技 法
油彩

絵の具を厚く重ねて質量・重量感を追求した時期の代表作です。中心の重々しい薩摩切子のコンポートにナツメがのぞいて、右には重く白い台の上に紅の縁取りが輝く凛然とした透明なホヤのランプと、左には厚く絵の具を塗り重ねることで、内側から存在感を輝かせる古い地球儀が、重厚で気品ある存在感を示しています。その輝きに対して周囲には、重い古い机と漆黒の壁を配して、画面全体を光と色のシンフォニーのページェント(山車)として浮き上がらせています。そこに絶妙に展開するのは、吸い込まれるような黒い壁の前で展開する、左の膝掛けから、パイプ、襟巻、後ろの時計の文字盤、ランプの土台から、机に映る反射と机の縁、ホヤのきらめくハイライトへと続く、「白」の展開です。左の膝掛けから、机の右の茶色、ランプの油壺からホヤにかけて、赤系の色のラインが絡み、中央に地球儀の太平洋から、ナツメ、その下の襟巻につながる黄色系が、カギ字で縦に横断しています。色彩の展開だけから見れば、この絵は、黒の壁をバックに、太い白いラインが横断するなかで、赤と黄色の色と光が絡む、色と光の抽象画として見ることも可能です。「物の本質に迫る」と自称する具象力を格闘技のように全面に押し出しながら、色と光での画面構成の下支えが、この絵をただ闇雲に重厚なだけでない、複雑に美しい「存在と空間」を追求した、奥行きのある静物画に仕立て上げています。惇芸術の精神の本質は、こうした力強い具象力と、巧みな画面構成と緻密な色彩の展開がかもし出す、「緊迫の風韻」なわけです。
ある時期、惇は「もはや絵画は、第二芸術」(「第二芸術」と言う言葉は、1946年評論家・桑原武雄が提起した、俳句を「現代の人生を表現しえない」として、論争を引き起こした提言)ということを、つぶやくことがありました。惇自身、上野の美術学校を出て日展を中心に芸術活動を展開してきた絵描きとしてはエリートですから、桑原がいう、芸術活動の「党派性」や「老人が病人を余技とし、消閑の具」という当時の俳句芸術への桑原の批判を、惇が自分の問題として意識したことは確かでした。実は惇の絵の自立への模索には、大げさに言えば、「日本の洋画を背負う思い」への彼なりの思い入れがありました。一方、「絵は理屈ではなく、実証だ」とか、「私は絵を見てもらえれば良い」と、かたくなに自分の絵を説明しなかった惇がいました。ここに登場する地球儀は、「世界の絵画芸術への挑戦」として、彼にしては珍しく意図をこめたものだったようです。

サザンクロスの詩
作品名
サザンクロスの詩
制作年
1977年(70歳)
サイズ
F50(H910 x W1167mm)
技 法
油彩

自分の絵の素材として、「他人の芸術思想が入った作品は、自分の作品の素材にはしにくい」と漏らしていた惇ですが、このジャワのお土産は、惇にとっては堤人形なみに、自由な妄想力を刺激したようです。実はこのワヤン・クリ(操り人形)は、しばしアトリエの殺風景な灰色の壁にかかったまま放置されていました。そして4,5年は手をつけずに眺めた上で、突然この絵が生まれました。その後、絵はうまれませんでしたが、壁にはずっと架けられたままでした。塩竈市杉村惇美術館の資料室にモデルになったワヤン・クリが展示されていますので、惇の幻想力のすさまじさを確かめていただく機会があるとよいのですが。いただいた当時は、今の姿よりはまだ衣装のきらびやかな色彩もあざやかで、少し色が褪めるのを惇は待っていたようです。ワヤン・クリは影絵芝居ですから、観客が目にするのはスクリーンに映る白黒の世界で、着色された姿は、スクリーンの裏側の「あの世の世界」なのですが、惇にとっては、独特の官能的な姿形も重要ですが、色こそが大事で、長い手と独特の髪飾りと衣装で劇的ポーズをとる神々の姿を、力強く幻想しています。それにしても、ガムランの音が聞こえてくるような、この活き活きとした造形力は見事です。実際現地を訪れることもなく、これだけ「さもありげ」に雰囲気を表現してしまう妄想・想像力こそが、惇がいう「物の本質に迫る写実力」の正体にして、惇芸術の原動力であることが、良くわかる作品です。絵画芸術の本質は、目にみえたものを幻想力で再構成して本質に迫り、その像を官能的に再現する営みなのでしょう。めずらしく表題も、洒落たものになっています。

赤いルパシカ
作品名
赤いルパシカ
制作年
1984年(77歳)
サイズ
F100(H1303x W1620mm)
技 法
油彩

中央に横たわる2体のマリオネットの、ルパシカのきれいな赤と後ろの鮮やかな黄色の麦わら帽子を中心に、いつもの超弩級の造形・具象力による迫力が引っ込んで、全体に白を基調にして、壁と机も明るくした画面になっています。
言葉にすると単純ですが、例によって実際の画面展開は、きわめて複雑な構成になっています。まず大きな画面構成としては、左の暗い敷物の上に乗った青味がかった白い砂糖壺と、ルパシカ服の赤と老人の眉、鮮やかな黄色の麦わら帽とコールテンの上着が絵の中心になって、右側は、白いコーヒー挽きがあって、伸びた人形の脚の先に古い酒瓶を置いて、壁も机も明るい右へフェードアウトしていく流れです。
その単調な横長構図に白のうねりが、波を打ちます。唯一しっかり描きこまれた砂糖壺から始まって、その後ろの鏡の縁の白、ルパシカ老人の眉と髭、時計の文字盤の上に白い鳩笛がいて、重い砂糖壺と比較して明らかに小洒落たタッチで描かれた白いコーヒー挽き本体の黄色がはいった白が、壁にのびた引手のつまみにも飛んで、間の抜けた白い人形の脚の先に酒瓶の白いラベルが、白の流れを打ち止めます。補助線のように机の縁が白く続いています。こうして「白」の展開は、微妙な広がりを見せながら画面を支配していきます。
その上で、絵を活気づけるアクセントが、左の砂糖壺の[SANGR]の太文字と、下に垂れたルパシカ老人の右手、白いコーヒー挽きの白い摘みですが、暖色系で画面の抑えになっているのが、砂糖壺の下の複雑にきれいな敷物と小さな鏡の縁と画架、さらに黒い時計の本体とルパシカ老人の黒い長靴です。
そしてさらに絶妙なアクセントが、ルパシカ老人の垂れた右足の膝のそばの机の角です。左奥の画架や、時計の上の鳩笛と同様に、この、老人の膝の曲りと対応した、曲線をふくむ机の角がなかったら、「絵にならない」くらい重要なアクセントになっています。
まさにF100号の大画面は、こうした小技によって、なにひとつとして過不足なく緻密に埋め尽くされています。その上、サービス精神が旺盛なこの作家は、この絵が幻想であることを示す、奇妙な仕掛けを残しています。左奥の鏡に映る人形の帽子と酒瓶です。
本作品のなかで、唯一シリアスな描写が、この酒瓶でして、その地味ながら、しっかり描きこまれた具象性、特に鏡の中の酒瓶は、戦後すぐのリアルで静謐な静物画時代の表現の再現のようで、それが軽妙な全体の雰囲気に、奥行きのあるリアルさをもたらしています。
しかし不思議なのは、鏡の映る遠く離れた右端の酒瓶でして、鏡のこの角度で、酒瓶はこんな風に鏡に映るものでしょうか。惇芸術の醍醐味である「幻想の真実化」は、絵画美を喜ぶひとには、長編映画を見るようなめくるめくドラマが隠されているのです。