ことばで紡ぐ 夏の幻視

投稿日:2017.09.12

レポート
《依存母子》(2013年 130×162cm キャンバスに油彩・アルキド樹脂絵の具/部分)

「ハタユキコ展 夏の幻視」をご覧いただいた方々から、展覧会や作品についてのコメントをいただき、展示室での閲覧ほか、ホームページ、SNSで共有します。さまざまな視点から自由に紡がれることばの数々が、鑑賞者の視野を広げたり、作品を読み解く手がかりとなることを願っています。いただいたコメントは随時更新します。(敬称略)
 
日本画家・山口裕子/絵描き・増子博子/佐立るり子/キュレーター・臼井奈美/アーティスト・キュンチョメ/はじまりの美術館・小林竜也/P3 art and environment統括ディレクター・芹沢高志/齋 正弘(元宮城県美術館教育普及部長)/JUNBIサポーター・坂爪奈央子


 
 

2017年9月12日更新

 
 
大学の後輩でもあるハタさんの作品は昔から拝見してますが、同じ時代に生きる作家としていつも刺激を受けています。
社会情勢への鋭い眼差しをストレートにぶつけた作品群にいつも鳥肌がたち魅了されます。タブーへの挑戦は、命を削りながらとも言える実直で繊細な制作姿勢が揺るぎない後押しとなっているのではないでしょうか。
今回、その日々の強靭な積み重ねのように幾重にも練り込まれた強烈な色彩と独特な筆遣い、構成力に更に磨きがかかったと感じました。
これからも彼女の活躍を楽しみにしつつ、自分への励みにさせていただきたいと思います。

日本画家
山口裕子
 
 


 
 

2017年9月9日更新

  

ハタユキコ展「夏の幻視」によせて

 
 もう20数年前になるけれど、祖母の家のブラウン管のテレビには色調整のためのつまみがついていました。
つまんでぐるりと回すと、テレビの中の色相がぐにゃりと変化していきます。映し出された風景や人の、本当の色は?と子供ながらに探った手触りを思い出します。
 
 ハタユキコさんの作品はよくSNSで流れてきていてそのたび、小学生のころぐるぐる回していたあのツマミの感触と、テレビから伝わってくるなにか不穏な空気感を思い出していました。
 
 今回は2013年から2017年に制作された5年間の仕事を拝見することが出来ました。たくさんの筆の痕から、彼女の不安や怒りなどふつふつと湧いてくる想いのチューニングがぐっと合って、考え抜かれたテーマがそこに定着する瞬間と目を合わせたような気がしました。そんな一瞬と出逢えるのが、彼女の絵の力なのかなと感じました。

絵描き
増子博子
 
 


 
 
絵だなぁ、と思いました。
詩や文章で言葉にしかできない表現を感じることがありますが、同じように絵でしかできない感じを「予兆」で見ました。
どの絵も色や、特徴のあるモチーフ、それが持つ主題、細々とした描き込みに目をうばわれますが、「予兆」ではプールの水面の高さのあいまいさや、手前と奥がつながっているように見せて、つながっていないようにも見えたりするところが、見ていて飽きなかったです。

佐立るり子
 
 


 
 

2017年8月30日更新

  

ハタユキコ展「夏の幻視」によせて

 ハタ作品の出発点は個人的な問いに由来している。例えば「自身が見たTVニュース」「山形のムカサリ」「家族の戦争体験」が挙げられる。それらはハタのフィルターを通しながら、個人の枠を越えた巨大な作品群を構築していく。
 ハタの描くモティーフには少なからず社会に対する絶望感や一種の誘惑のようなものが感じられる。「この先地獄」の書き込みやグリーンアーミーに漂白されていく少年たちはまさにその象徴ではないだろうか。
 そうした絶望や不安を感じながら、ハタは画面に暗い色彩ではなく、キッチュな印象の極彩色を用いている。暗い色彩を採用することはハタの目的ではない。極彩色に染めることで自身の問題意識を観者に対し問いかけているのだ。普段我々が目をそらしている不安を浮かび上がらせる色彩。ある意味でハタのカンヴァスは社会、そして観者個人個人の鏡写しとなっている。
 「明日ミサイルが降ってこなくても」、それに近いある種の、薄ぼけたパステルカラーの不安を抱える人々は数多く存在するであろう。描かれた色彩はハタ自身の感受性の強さといった個人的な感性に収まることなく、誰もが感応するであろう彩度が高められた不安として、作品を形成するのである。

キュレーター
臼井奈美
 
 


 
 

2017年8月19日更新

  
現代日本の象徴であるまとめサイトと、渦巻く私念を合わせてぶちまけたらこんな場面が生まれる、のかもしれない。

その存在感はなんというか全てを浄化してしまう仏壇のようでもある。
きっと彼女は天国と地獄を行ったり来たりできるのだ

アーティスト
キュンチョメ
 
 


 
 

2017年8月16日更新

 
 
ハタユキコの作品をはじめて見たのは、たしかネットニュースで流れてきた2年前くらいの展覧会情報だったと思う。今回、本展『夏の幻視』を鑑賞して思い出したが、その作品は《祝言》だった。最初はその色遣いに目を奪われ、次に軍服、軍艦といった戦争をテーマにした絵という印象が残っていた。
本展の内覧会にご招待いただき、幸運にも作家本人の解説を聞きながら鑑賞することができた。戦争や政治など日々流れるニュースに影響を受け制作されるという彼女だが、その表現は直接的でありながら、風刺的であり、どこかユーモアがある。《ブタリーマン》は、社畜と揶揄される一部の会社員を風刺した作品だが、細かく見ていくと食べているものが豚を使った食品ばかりで、共食いをしているのだと分かる。背後に書き込まれた紫の馬のようなシルエットは馬車馬だろうか。右上には仙台大観音がそれを見守り、目の前では飛行機が墜落している。手術を待ち構えているマスクに透けているのは、やはりブタである。そうして見ていると「今、私はなにを見ているのだろうか」という戸惑いに似た気持ちを覚える。パッと最初に見た印象と、細部をじっくり見た印象が同じ絵とは思えないほどである。『夏の幻視』とはそういうことなのだろうか。今回の展覧会フライヤーに書かれた彼女の「創作理念」からの抜粋にはこうある。

「その世界は隔絶しているからこそ滑稽で、涙が出るほど美しいと思う。」

幻視と名付けられた展覧会とは裏腹に、彼女はどこまでも現実的なのではないかと思う。彼女のこれまでの体験、見聞きしたもの、そして制作のときに考えていること。すべての現実を彼女はその絵に込めている。幻視とは、「直視せよ」というハタユキコ流の我々へのメッセージなのではないだろうか。

はじまりの美術館
小林竜也
 
 


 
 

2017年8月5日更新

 
 
『夏の幻視』。なんとも魅惑的なタイトルだ。幻視とは、芸術の本質に他ならない。見えないものを見る。あるいは、今見えている世界の、もうひとつ別の姿を見る。
日々の生活で感じる、うっすらとした不安。不条理。説明のつかない不気味さ。現代社会ではすべてに説明が強要されるから、私たちはますます不安になり、追い詰められていく。この傾向は2011年3月11日以降、特に強まってきているように思う。

ハタユキコは自分が見た幻視を淡々と描き出す。そこには解釈も説明もない。彼女はただ、自分が見たままを描いているのだろう。街角で見かけた仲の良さそうな母と娘の姿に、『依存母子』のシーンを見ているのかもしれない。
淡々と描き出すというハタユキコの姿勢に、私はとても好感を持つ。彼女はそれを糾弾したり攻撃したりしない。ことさら醜く描くわけでもなく、かすかな諧謔やエロティシズムさえ漂わせる。
ここに現れたシーン、そして細部の意味を読み解いていくのは私たちだ。彼女ではない。彼女はただ、見たものを描くだけだ。この世界の不思議さを、彼女は淡々と描き続ける。

このような若い才能が東北の地に育っていることに、私は深く頷く。いや、震災後の東北にこそ生まれるべき感性なのではないだろうかと、強く心が動かされるのだ。

P3 art and environment統括ディレクター
芹沢高志
 
 


 
 

鑑賞をめぐるメモ 

20世紀の最大の発見は、物を見る目は、見ている人の方にあるということがわかったことだと、僕は思っている。教育が常に受ける側にその主体があるのと同様に、鑑賞は常に鑑賞している人の方にこそその主体がある。

視覚表現の展覧会(今回は絵の展覧会)を見に行くとそこに飾ってある絵を細かに説明してくれる人(時に作家も)がいる。使われている言葉を知っていればいいが、年齢が異なったり、生活の興味が異なると、使われているその言葉の意味自体がわからないことも多い。見ている人は、説明されても、知っている言葉の説明しか理解できない。鑑賞している人に主体があるということはそういうことだ。描いた人より、見ている人の方がより深く広い世界観を持ってその絵を読んでしまっていたら、それは間違った?鑑賞になるのか?

説明の言葉がわかったとしても、その理解の深さには、その人の生活からくる幅の広さがあり、深さは各々異なる。そのような鑑賞に耐え続けられる/たのが、今の私たちの美術。

そもそも、何かを見て、描く人が心を動かされ、言葉では書ききれないと思ったから絵を描いているわけで、書けるなら話すだけでも伝達は可能なはずなのだ。落語を観/見よ。

どんなに細かく微に入り細にわたり、描かれているものやことの説明をされても、それを使って理解するのは見ているその人でしかない。なので、そのため、視覚表現はいつまでも死なずに、ここまで来た。あ、この前ラスコー展を見たが、そもそもそのため、私たちは絵を描いたのではなかったのか。

良い絵とは、どういうもののことだろう。ということをいつでも考えることができるために、公共の美術館は存在する。誰かの好きな絵を飾ってあるのではなく、絵とは何かを考えることができるために。今、ここでは、杉村惇と、ハタユキコの表現を、比較しながら見ることができる。

授業としての美術図工から離れ、先生(または誰か詳しい人)に教えられる状況での美術鑑賞ではなく、そこに今いる一人の人間として、同時代をどのように自分のものにするのかが常に問われる鑑賞。説明は、各自が知っていることだけを使って、そこに描かれていることを、各自が納得するように自分に説明する。良い絵の鑑賞は一点に収束しない。絵から各自が拡散する。収束するのはイラストレーション。拡散する/できるのが絵。どれだけの年代がどれだけの方向に拡散できるのかが、絵の良し悪しを決める。

さて、という地点に立って、良し悪しとは関係なく、良し悪しを超えて、この/その一枚の絵から、あなたは何のお話をあなたの中に広げられるのだろうか。まず、あなたは何が趣味なの?というあたりから。

齋 正弘(元宮城県美術館教育普及部長)
 
 


 
 
ハタさんの作品を観た時に感じた「どこか奇妙で歪んでいる」という気持ちは、私が普段見聞きする世界情勢や日本の社会情勢に対して、「何かが変だ。不自然だ。」と感じる気持ちと似ていました。ハタさんはその不条理な現実を諦め受け入れつつも、作品の中でしっかりと抗っている方だと感じ、その視点に絶望ではなく希望を見ました。全体的に作品のテーマが重くなればなるほどポップな色調が強くなっていく点に、ハタさんの心の中で燃え上がる炎(例えば戦争への怒りなど)を見た気がします。

『ワンダフルニッポン』に控えめに描かれていた「この先hell」の看板が私にとって圧倒的な存在感と強いメッセージ性をもち、現実を突きつけられた気がしました。このメッセ―ジが何かの予兆とならないようにと願うばかりです。

ちなみにこの展示を5歳になる息子と鑑賞しました。幼児には刺激が強そうでトラウマになったらどうしよう…と最初は見せることを躊躇しました。しかし、戦争やテロなどがもたらす悲劇を知らない息子は「ブタがみんなでお弁当を食べてた!」「パンダ!」「車!飛行機!」「色がきれい。」など、生まれてから5年間に構築された彼の世界の中で純粋にハタさんの作品を解釈していたようです。

作者の目を通して描かれた世界の解釈は鑑賞者の数だけあり、その価値観、経験、社会的文化的背景によって幾分にも枝分かれして広がっていくことを実感した興味深い展示でした。

JUNBIサポーター
坂爪奈央子