クロストーク 五十嵐太郎(東北大学大学院教授・建築史家・建築批評家)×かんのさゆり(写真家)×菊池聡太朗(建築/美術作家)

投稿日:2021.03.04

トーク

若手アーティスト支援プログラムVoyage
かんのさゆり・菊池聡太朗展「風景の練習 Practicing Landscape」関連企画 クロストーク

 

五十嵐太郎(東北大学大学院教授・建築史家・建築批評家)
かんのさゆり(写真家)
菊池聡太朗(建築/美術作家)

展覧会開催に向けて、五十嵐氏の視点から両作家の展示作品やテーマについてご覧いただき、建築や写真を起点に語り合いました。このトークは2020年11月22日に美術館にて非公開の形式で行われ、収録したものを編集しました。

見出し
・作品について(かんのさゆり)
・日本の住宅のサイクルについて
・見えない震災
・現代の風景
・作品について(菊池聡太朗)
・再現すること
・オリジナルと複製
・景観における西洋と東洋の意識の違い
・ショートケーキ住宅
・民藝と無名性
・観光地の景観と歴史の痕跡
・コロナ禍下での展覧会へ向けて
 


 

作品について

かんの:作品の説明をいたします。≪ニュー スタンダード ランドスケープ≫というタイトルで、震災後の仙台近郊の風景を中心にまとめています。
私は仙台市内の内陸の方に住んでいまして、被災の状況としてはライフラインが途切れたことはあるけれども津波などの影響はなかった地域に住んでいて、そこにずっと空き地のままの開発された当時のそのままって感じのところがたくさんあったんですけれども、震災後二年後ぐらいから新築の家がどんどんどんどん建ち始めて、需要が高まったり、あとは地盤のまぁまぁ良かったところに越したいという、市場の原理みたいなのでいっぱい新築の家が建ち始めて。最初は何気ない近所の風景として見ていたんですけれど、質感がだんだん気になり始めて撮り始めました。

五十嵐:何年ぐらい前からやっているんですか?

かんの:これは5年ぐらい前からずっと撮っていまして。主にデジタルカメラでデジタルの出力で作品を作っています。このへんもごく近所ですけれども。晴れた日によく撮りに行っていて、本当に模型のような、写真に撮るとますますその感じが強まるというか。
家の庭にテントを張ったりとかもよく見られて。切り出した石を模した壁面だったり。このへんからは高台移転をした石巻の住宅地なんですけれど、そっちに行っても内陸と海沿いで同じような質感のものがどんどんできていると思って。
写真だとどこで撮ったかもう分からないというのが結構重要と思って見ています。いわゆる建築家の名前の付いた建物ではなくて、量産された工業製品としての住宅の質感が非常に気になるという状態ですね。これは海沿いです。

五十嵐:これは自力復興なのですか?

かんの:自力なのかな。

五十嵐:復興住宅だと建築家が関わっていたり、ある程度揃ってると思うんだけど、それぞれバラバラってことは自力でこうしたんですかね。

かんの:そうですね。それも割と判別がつきづらいという状況です。
量産されたそんなに個性のないような宅地でも、見ているとみんなそれぞれ生活とか季節が出てきたり。大々的にはやらないでポータブルな鯉のぼりだったり。箱みたいな家がいっぱいできていますね。機能なのか装飾なのかなんて言ったらいいか分からない。額みたいになっていて。嵌め殺しの窓※が最近すごく多い。コスト的に窓の所ってちゃんと造るとかかるらしいので、そういう経済的なところもあるんでしょうけれど。
※嵌め殺しの窓/壁などに直接はめ込まれた、開閉することができない窓。

五十嵐:これは石巻ですか?

かんの:これは仙台の内陸の方です。バブル期にダイエーだったんですけど、それが最後西友になって、西友も潰れて今また違う建物になっているんです。ショッピングモールが終わるっていうのがすごく象徴的だなと思ってこれも入れてみました。

五十嵐:ここは今も営業しているんですか?もう終わったのですか?

かんの:今西友はなくてホームセンターになっています。一つの建物が流転して変わっていったり。私は内陸の方に住んでいて、住宅地以外は何もないようなところなんですけれど、ショッピングモールでいえばイオンがあるぐらい。個人商店もどんどんなくなって、チェーン店ですらもう自分が小さい頃通ったところはないっていう、すごく寄る辺のない状況。これは多分日本の他の地域でも一斉に起こっていることで。
私は1979年生まれなんですけれど、そのくらいの世代の人ってみんなもう小さい頃行ったところってないんじゃないかなと思って。沿岸部は津波があって何もかも無くなっていますけれど、内陸部でも災害が無くてもそういう時流の変わり目で、どんどん記憶にある風景はなくなっている。
これなんか内陸の方なんですけれど、地方のロードサイドの典型みたいな風景です。きっとこのあたりで育った人はここを原風景として育って、っていう感じなんだろうなと思いまして。
このへんは今年(2020年)撮ったものなんですけど、コロナ以降ますます連休になるとみんな家の周りでテントを張ったりして楽しむという。

五十嵐:でも東京だと、まわりの目もあるし、庭がそれほど広くないから。地方都市ならではという感じですね。

かんの:ここからは震災の浸水地域中心なんですけれど。これは荒浜です。今はもうこの風景はまた変わっていて、無いですね。
 


 

日本の住宅のサイクルについて

五十嵐:家はハウスメーカーであるとどうしてもこうなっちゃうっていうか。沖縄や北海道だと、気候の条件が特殊になるので、ハウスメーカーが入りづらい。沖縄は白アリや台風の被害が無視できないので、コンクリートの住宅が多くなります。そうすると、基本的には建築家が設計します。だから、沖縄には建築家が多いそうです。

かんの:南と北だけという感じですかね。

五十嵐:ある程度、極端な環境だったり、敷地がとても小さかったり、不整形だと、ハウスメーカーの標準住宅では対応できなくなります。そもそも日本の住宅は、先進国の中でも一番サイクルが短いので、平均30年弱ぐらい。だから、人間の人生の半分ですね。今、日本の平均寿命は80歳ぐらいまで来ているから、それよりも短命で、ここ(かんのさんの作品)にある家もそういうタイプの家になってしまう。

かんの:日本が最も短いんですか?

五十嵐:少なくともデータがとられている先進国の中だと、日本が一番短い。以前、見たデータだと、28年くらいでした。イギリスとかは住宅の方が人間よりも長生きです。今も多分そうだと思いますが、世界で一番寿命が長いのは日本なので、住宅と人間の寿命というのが入れ替わっているというのが極端な国だと思います。
もちろんヨーロッパとかになると、家が古くなればなるほど資産価値が出て。それは日本の場合どうしても土地の信仰っていうか、不動産の論理では、土地の値段が強くて、上物に価値を見出さない。だから、使っているうちにどんどん減価償却して、しばらくすると、建築の価値がゼロになってしまう。一方、ヨーロッパとかだと、上物を離して考えない。だから建物が長く残っている。
日本の場合、土地と上物を切り離して考えて、土地だけに価値を認めるために、土地の相続をきっかけに、税金を払うために分割すると、上物は壊すことになります。

かんの:上物と土地とを離して考えているというのが面白い。そうですよね、西洋だともう恒久的な…。

五十嵐:西洋だと長く使えば使うほど、建築の資産価値が上がったり、手を入れればむしろより高く値段が付くというか。日本では、建築の価値が上がるという発想があまりないですよね、そもそも不動産の領域で。

かんの:築年数が少ないほど良いみたいな感じですよね、賃貸でも。

菊池:文化財レベルというか木造で築120年の古民家、みたいな別の視点での価値が付いたら、年月が経っているほど良いみたいなこともある。この建物(杉村惇美術館)も。

五十嵐:でも住みやすさ、暑い寒いで言うと、やはり古い建築は、大変だったりするから。あるいは ここ(杉村惇美術館)だと、たぶん大変なリノベーションをしていると思うんだよね。多分壊して建て直す方が簡単なのを、わざわざ面倒だけど原状復帰もできるような手の加え方をしている。それは相当意識が高いか、思い入れがないとできない。普通は壊してまた造る方が楽です。ただ、安いというのは、短期的に経済を考えた場合です。
長期的に考えると、補修を続けるのは、面倒で手間がかかるけれど、文化的な価値は上がります。なかなかそれをお金に換算しづらいですが、歴史がまったくない街だと、魅力はなくなりますよね。例えば、最近話題になった宮城県美術館※がそうだけど、短期的には移転して、国から予算を得たほうが良さそうに見えるけれど、すでに評価された価値のある建物を長く使い続けることは、トータルの長い視点で見ると、大事なことです。
もし、まだまだ使えるのに、一時金欲しさにこれを壊せば、宮城県や仙台市は損をすると、僕は思います。
※このクロストークが行われた2020年11月、宮城県美術館は移転について議論されている最中だった。後に現地存続が決定した。
 


 

見えない震災

かんの:宮城県は意外と壊していますよね?仙台も。

五十嵐:仙台市は戦災もあったからね。ただ僕は「見えない震災」って言っているんですけれど、その話を直接考えたのは耐震偽装の問題が起きたときです。既存不適格というのは、建てた時には、耐震基準を満たしているんだけれども、後からそのハードルが上がった場合、街に存在しているものの、厳密に言うと、基準を満たさない状態です。
例えば、宮城県沖地震や阪神淡路大震災のような出来事があると、耐震の基準が上がります。だから、実は街には現状の耐震基準を満たさない建築がいっぱいあるわけです。もちろん、姉歯氏が新築で数字を偽装したのは、許されない行為なのですが、耐震基準を満たさない建築をすべて壊せ、という話になると、既存不適格もその対象になってしまうジレンマがあります。
ちなみに、本格的なリノベーションをするときは、補強して、現状の基準を満たさないといけない。ただ、既存不適格は、おそらく、面倒くさい補強をするよりも、簡単な新築をうながすことになりますね。だから、日本では「見えない震災」があると考えました。つまり、実は30年ぐらいすると、多くの建物が入れ替わるわけです。日本では、いつも「見えない震災」が静かに進行している。激烈な地震が発生すると、あっという間に建て替えが起きるので、街の変化は可視化されるのですが、仮に地震がなくても、密かに同じようなことが起きている。そういうことが、ここ(かんのさんの作品の撮影場所)でも、時間を凝縮して、短いスパンで発生している。
 


 

現代の風景

かんの:今回は宅地の写真を中心にずらっと並べる展示の予定なんですけど、人の写真もちょっと。でも人が映っているのも、より仮設感が強いところに映っているのが多いので、それはそれで分けて大きくプリントしようと思っているんです。
昼間の宅地はすごくひと気がないですね。休日でもそんなに人がいない。高台移転したところは平日の昼間に行くと本当に人がいない。生活感があまり感じられない。これから出てくるのかもしれないけれど。

五十嵐:逆にコロナの時に家で仕事をしている人がいるともうちょっと生活感が出るかもしれない。

菊池:外から撮っているから中に人がいない、見えない写真。どっちにしろ中で仕事をしていても外に仕事に行っていても、人がいない感じ。

かんの:場所性みたいなものはこういう震災がなくても剥ぎ取られているんだろうけど。ますます無くなっている。

五十嵐:女川とか地形とか街区割りまでも変わっちゃっていますよね。あそこまで変わると本当に違う場所。まぁ、宅地とかが変わってもそれを取り囲んでいる山とか変わらないものも本来あるんだけど、かなり自然の地形まで変わるとどこがどこだか分からなくなるっていう。

かんの:南三陸のモニュメントも見に行ったんですが、あそこもどこの国なのか分からない。あれって誰かが統括してやられているんですか?グランドデザインみたいなものっていうのは。

五十嵐:隈研吾さんも関わっていますが、全体の統括はどこかなのか、よくわからない。

菊池:公園みたいなところですか?

かんの:公園みたいなところ。謎だなって思って。

五十嵐:旧防災庁舎も、周辺をだいぶかさ上げしたので、現在の地面よりもだいぶ下の方に見えますね。

かんの:すり鉢みたいになっていますよね。すごい不思議な光景。宮城県に住んでいてもどうやって進んでいるのかよく分からない間にああいうのがどんどんできていて、他の岩手とかの被災地もいろいろ激変ですよね。

五十嵐:陸前高田も相当変わっている。

かんの:元々土地への愛着とか執着が多い東北の地域でそういうことが起こっているから、住民の人の精神とか、どういう気持ちで眺めているのかなって。取材をしていないから分からないですけれど、すごく気になっています。
 


 

作品について

菊池:僕の作品について説明します。僕は大学の時に現地(インドネシアの古都・ジョグジャカルタ)で調べていた家の作品があって、それはインドネシアのある建築家が増改築を繰り返しながら建てた家で、作者が亡くなった後も、そこに住む別の人に作りかえられて使われている、ちょっと普通の個人の家を超えた面白い開かれ方をしている家のドキュメントなのですが、それを、ここ(杉村惇美術館)に持ってくることを最初プランを提案する時に考えていました。
建築とか風景が今回のテーマにもなっているんですけれど、普通建築そのものを持ってきたりとか他の場所で見ることはできないので、その空間を伝えたり記録したりするために、また自分が理解するためにインドネシアでは最初に実寸というか建物自体の寸法を測り、平面図を作りました。
ただこの家が増改築を繰り返していてすごく複雑な構成をしていたことや、誰かの気配を常に感じるようなそういう経験自体が図面では伝わらないというか。そういうものを違う表記方法で書けないかなと思って作ったものがこういうものになっていて。

スナップのように撮っていた写真と、手記のようなメモ書きや引用から、違う表記をしようと思いました。
また、この家が一個のインドネシアにある特定の閉じられた家であるにもかかわらず、部分を見ていくといろんな国のお土産のようなものであったりとか、その土地の観光地の遺跡の壁画のような壁紙があったりとか、オランダの画家のボスの絵があったりとか、文化とか、宗教的なものであるとか歴史を表象しているところが面白いなと思っていて。そういうものが連続して一個の物語になってくることを想像していました。特定の場所のことを、全く別の塩竈という場所に移してきたときに、何かこの場所と重なって違う風景が見えてくることが出来たらいいなと思っています。
インドネシアでプライベートな家を対象に調べていたんですけれど、そこが結構他の人も出入りするプライベートであると同時にもう少し公共的な開かれた部分もあったことを考え直していた時に、コロナ禍があって公共の場所には立ち入れなくなり、自分の家だけにいなきゃいけなくなって、閉じられた内側から外の世界を想像するということがこの家での経験と自然と重なりました。一方で公共的なところにはいれない代わりにオンラインで他者とか、もう少し公的なものが家の中に入ってくることがあった時に、何かプライベートなことと公共的なものが今までと違くなるというか、反転するような感じもありました。展示空間を少し裏返されるような、そういうものをできないかなと思っています。

五十嵐:今回の展示のベースは、修士設計でやったものを発展させるわけですね。修士設計のときは、自分の記憶の中のものを空間にして、一個一個作ったんだっけ?

菊池:そうですね、実際の建物の寸法とか壁の厚みをなぞってはいるのだけれど、室内を歩いた経験や、写真、その写真の画角や記憶なども混ざっているために、元の形からは変形した断片のようなものになっています。

五十嵐:今回はこの美術館の建物と石の話で違う要素が更に接続するというか重なるというか、そういうことなんですね?

菊池:はい、真っ白な空間や、窓や、日が差した時の影の感じ、展示室の中から外に出せない二つの大きな展示可動壁が印象的だったので。塩竈石は、この建物にも実際に使われている石で、ここでない場所とこの場所の、時間、過去、痕跡みたいなものが具体的な素材を通して何か重なってくると面白いなと思っています。
 


 

再現すること

菊池:建築って実際に持ってきたりとか重ね合わせたりとか、または再現みたいなことって基本的にはできない、今回も、自分が体験をした家というものを再現するっていうよりは、もう少し別の意味があるものとしての「写し」のような形で持って来ようとしているのですが、そのことを考えた時に、一方で再現・復元みたいなことをする場合、つまりオリジナルというものが何かあってそれを目指してやるというようなことについてどういうふうに考えていますか? 博物館とかでも状況を再現する歴史的な建物とかを元のような形にするか…。

五十嵐:まず、例えばお城が日本の各地に再建されています。でも、あんなに増えていると、根拠のないお城がいっぱいあります。城が焼ける前に正確な図面があったり、ちゃんと記録をとっているものは、構造が変わっていたとしても、正確に復元とか再現はできます。名古屋城も、一旦焼けて、コンクリートで復元しましたが、今度それをまた木造でやるって大騒ぎしていますよね。でも一方で、浜松で再建された城は、あまり資料がなくて、イメージを実体化しただけなので、復元とは言えないですね。だから、再現・復元に関して言うと、様々な事例というか、レイヤーがいっぱいあります。
例えば、10年ほど前に、東京駅のドームを創建当初のものに戻しました。歴史を振り返ると、空襲でドームが焼けてしまったのを、戦後に急ごしらえでオリジナルと違う形の外観をつくったのが、復元前の姿です。ただ、実は オリジナルの状態を知っている日本人はもう少ないと思うんですよ、肉眼で見たことがある人は。少なくとも戦後の半世紀以上は、オリジナルでないかたちをみんなが目にしており、記憶しています。これもすでにまぎれもない、歴史の一部ですね。だけど、21世紀に創建当初の姿に復元すると、東京駅という建築の戦後の歴史を消すことにもなるんですよね。オリジナル重視の歴史観が、もうひとつの歴史を排除するわけです。つまり、物理的に異なる建築は、同じ場所を占拠できない。どちらかのみ存在可能です。
ただ、個人的に、もっとアクロバティックな解決方法があると思っています。多分それは絶対に選択されるものではないと思うけれど、ドームが2つあるので、ひとつはオリジナルに戻して、もうひとつはそのままにする方法です。左右非対称になってしまいますが、単純にオリジナルがベストと無批判に受け入れるのではなく、思考実験として考える価値はあると思います。
例えば法隆寺も、金堂から二層目の軒が垂れ下がって来たので、江戸時代に龍が巻きつくつっかえ棒を付けたんですよ。でもそれは修復工事をしても、外さないんだよね。江戸時代の試みも、法隆寺の歴史として残しているわけです。つまり、どこまでを歴史として残すのかは、価値観を伴う判断を必要とする、複雑な問題です。

菊池:何を歴史とするかということですよね。例えば「龍が巻き付いている」みたいなものも、何かこう現代というかその時代の人が過去にやった龍が巻き付いているみたいな仕事に対して何か残すべき、みたいなふうに感じたんですよね。

五十嵐:それが江戸時代から存在しており、もう見慣れた法隆寺の風景だったのでしょう。ちなみに、ギリシアの神殿は白い建築ではなく、本来彩色された装飾があったのですが、もし部分的にでも着彩して復元したら、現代人は違和感を覚えると思います。日本の伝統的な建築だと、見えないところでは大胆なことをやっています。
例えば、奈良の東大寺の大仏殿は、明治期に修復していますが、その際、鉄骨を入れて補強しています。もちろん、外からは見えない天井の裏ですが。明治時代だから、鉄骨を使えるようになっているし、最新の技術を使ったわけですね。もともと鎌倉時代に建設された東大寺は、それまで日本になかった巨大建築を成立させるために、当時、最先端の建築工法、大仏様を採用した画期的なプロジェクトでした。だから、鉄骨を使うのは、精神としてはオリジナルを継承しているかもしれない。建築のオリジナルとは何かを真面目に考え始めると、実はとてもややこしい。
 


 

オリジナルと複製

菊池:オリジナルと複製という話が、写真とか建築の話をかんのさんと話していた時に割と出ていたことがあって聞いてみました。

五十嵐:オリジナルに対する考え方が、近代になって、すごく大事だということになってきた 経緯があります。
例えば、フランスのパリのノートルダム大聖堂の屋根が焼けましたが、その修復をどうするかが話題になりました。われわれがよく知っている姿は、ヴィオレ・ル・デュクという 19世紀の修復建築家が手がけたものです。彼は当時、中世のフランスの城や大聖堂 をいっぱい修復した人で、そのおかげで今も保存されているものも多いと思いますが、一方で後の時代からは「破壊的修復」という批判も受けています。思い込みの強い修復をしていたからです。
ヴィオレ・ル・デュクは歴史的に調査して修復するというよりは、理想のゴシック建築のイメージをもっていて、ある意味で彼のオリジナル・デザインを結果的に加えました。そうすると、現代の基準からいくと、彼がやったことは学術的な修復とは言えない。今の考え方は、歴史研究にもとづくものですが、手を加える際も、どこかオリジナルで、どこがそうでないかを明確にしたり、後からもとの状態に戻せるようにします。
この美術館のリノベーションでも、二階の窓など、そうした部分がありますね。絵画の修復もそうですね。ただ、こういう考え方は、近代以前ではなかったものです。

かんの:ジャッジが変わるんだよね、時代で。かなり変わる。

五十嵐:もともとゴシック建築は完成までに数世紀かかるケースもあり、ファサードが未完のまま、使い始めているので、現代のような、はい竣工というタイミングがはっきりしない。シャルトル大聖堂とかも、建設の途中でロマネスクからゴシック様式にデザインのモードが変わり、それぞれの部分が異なる時代の違うデザインの継ぎ接ぎになっています。
ちなみに、ノートルダム大聖堂の屋根が焼けた後、いろんな建築家が新しい案を出したのは、すごくフランスらしいと思いました。ヴィオレ・ル・デュクの時代を含めて、ノートルダム大聖堂は、何度か外観を変更しています。時の感覚で。なので、今回また頂部を新しいデザインにすることは、長い歴史から考えると、それほど無茶苦茶なことではない。一方 で、同じ年に、日本では沖縄の首里城が焼けましたが、再建にあたって、新しい形をつくるなんて、誰も言わないことが、印象的でした。

菊池:それが例えば火災でなく震災後ということを考えるとしたら、どういうことになるでしょうか。

五十嵐:僕は、建築単体ではなく、街区ごと、まるごと震災遺構を残したらいいと最初から思っていたんですけれどね。今は点でしか残っていないですけれど。ただ、元々それが日本人には馴染みがないというのも、よく分かる。つまり、石の文化と木の文化の違いですね。例えば、奈良に平城宮跡がありますが、地面に礎石が並んでいるぐらいで、遺構としての建築がまったくない。その代わりに、100%現代に復元したピカピカの大極殿と朱雀門などがある。つまり、ほとんどゼロか、新築しかない。でも、ギリシアやローマなどの遺跡は、ゼロの風景がない。建築が壊れていても、3割ぐらい残っている、壁とか柱とか。火山灰に埋もれたポンペイの廃墟だって、街の息づかいすら感じます。やはり、石やレンガなど、素材の耐久性が圧倒的です。防潮堤のコンクリートなんかよりも、石の方が絶対に強いと思います 。
そうすると、ローマがその代表ですが、現代都市において、遺跡と共に暮らすというのが、ヨーロッパの感覚ではそんなに不思議ではない。一方、日本では結局、木は腐っちゃうから、礎石しか残らない。さっきの話とつながりますが、上物がすぐ消えてしまう。ただ、東日本大震災は、日本が近代都市化して初めての大津波なので、以前と状況が違います。コンクリートの建造物であれば、広島の原爆ドームを修復しながら、一生懸命残しているわけで、あれはずっと残すことになると思います。明治や昭和の三陸沖津波だったら、当時ほとんど木造の建築だったから、残したくても残せなかったとは思いますが、今回はやろうと思えば、長期的な保存が不可能ではない。木の文化みたいな話は、そういうところにも影響を及ぼしていると思うんだけど。
 


 

景観における西洋と東洋の意識の違い

かんの:逆に西洋の石の文化で、景観がめったに変わらないというところで、建築家の人たちは変えたいという欲望があるんですかね?

五十嵐:変えたいというか…日本の建築は自由に作れてうらやましい、とは思っている。でも一方でヨーロッパは、建てるのに時間がかかるし、苦労もするけど、逆に一回建ったら長く残る。簡単には壊さない。あと はリノベーションみたいなものは普通にある。日本だって、この20年ぐらいで、ようやくリノベーションが普通に語られるようになったけれど、リノベーションは向こうでは、もともと当たり前にあるテーマで、ずっと建築家にとって重要な仕事です。

かんの:建築家の人の精神性がかなり違いそうですよね、西洋と東洋では。
建築雑誌も好きで見るんですけれど、建築家さん、作家性のある建物というのはよく写真とか雑誌で見ますけれど、国道沿いのロードサイドの風景であったり、私が特に興味があって撮っている地方の住宅地なんていうものは絶対出てこない。わざわざ雑誌で取り上げたり論ずることはめったにない。あえて論ずる人はいるのかもしれないけど、一般的には無視されているというか、なかったことになっている。五十嵐先生の『ヤンキー文化論序説』も大変興味深く読ませていただいたのですが。「ヤンキーバロック」というのもとても面白い考え方で、こういうのもやはり時代を経て客観的に見れてこそ、皆で論ずることができるものなんですかね。
 


 

ショートケーキ住宅

五十嵐:建築雑誌としては、どうしても何か新しいことをやっていないと掲載しない。雑誌というのは、新しいものを世に送り出すことで成立するものなので、それは仕方ない。ハウスメーカーの住宅が一般化したのは、1970年代なんですよ。ただ、その前史にあたる、60年代ぐらいは量産住宅 と建築家は一緒にタッグを組んで、開発していました。それは建築家にとっても、モダニズム の延長として位置づけられる試みでした。工業化しながら、質の良いものを社会に送り出すというのは、モダニズムの使命のひとつですね。
例えば、「セキスイハイムM1」は、箱型のユニットをトラックで運んできて、現地で積むだけで、住宅ができる画期的なシステムです。建築工法の実験的なプロジェクトとして、1970年に登場しました。これは建築家が関わっていましたが、その後、商品として売れる住宅はそういう即物的なものではなく、洋風の装飾が付いているものになっていく。これを建築家の石山修武さんが「ショートケーキ住宅」と呼んでいます。
つまり、何か甘ったるいデコレーションがのっかったデザイン。そうするとハウスメーカーも、前衛的なデザインよりも、スパニッシュ瓦、出窓、バルコニーなどをオプションのアイテムにした方が、マーケットとして売れちゃうので、建築家とは離れて、独自の展開を遂げていきます。

菊池:それは経済の仕組みとか…。

五十嵐:消費のイメージを売るわけですね。実はハウスメーカーの商品住宅の価格には、広告費とか営業のお金がすごい入っていると思うんですよ。建築家が設計したら、そういうものがないので、広純粋に施工費の10%みたいな基準でやるんだけど、広告をがんがん打って「夢のマイホーム」とかそういうイメージをつくって、ハウスメーカーは大衆の心をとらえた。だから、安いわけでもない。むしろ、あまりに予算がないと、ハウスメーカーが相手にしてくれないので、建築家にローコスト住宅を依頼する流れもありますね。
 


 

民藝と無名性

菊池:僕が思ったのは、こういう量産住宅もある意味、名もないというか。建築家という存在が建てたわけではないという意味では無名性があるけれど、かといって民藝のような無名性のようなものとは違うような。民藝というと何かもう少し親しみとか手で作っている感じがあると思います。僕がジョグジャ(ジョグジャカルタ)で滞在してた家は、最初は建築家の作家性みたいなものがあるんだけど、それが作りかえられていくうちに、どんどん他者性が入ってきてアノニマスなものに近づいていくような感覚だったので民藝ということも思い当たったのですけど。

かんの:量産型の住宅っていうのは民藝にあたるのだろうか?という話を菊池さんとしていたんですけれど。

菊池:かんのさんはこれを民藝的な親しみというかそういうものとして撮っているという気持ちもあるんでしょうか?

かんの:ちょっとそれはあるかもしれないんですよ。自分が住む町のすぐ近くの光景だし、これを否定するような気持ちは正直ほとんどありません。批評性があって撮っているつもりなのですが、これを糾弾したいとか否定的な文脈で語りたくて撮っているわけではなくて。かといって「被災地の人々の悲しみに寄り添うつもりで撮っているんですか?」って質問されたことがあるんですけど、そこまで写真は負えないというか。写真は表面のメディアなので。心の問題というのは非常に難しいんですけれど、私はとにかく表面を撮り続けて考えたいという立場で撮っています。この質感のものを見るとちょっと愛着が正直ある。「あ!ここにも同じような景色が現れている!」と思って沸き立つ気持ちはあります。もう否定的には見れない。

菊池:それが原風景みたいに思っている人もいる。

かんの:ここで育つ人は皆きっとこれが普通で育つだろうし。

五十嵐:民藝という意味では、工務店や地元の大工が建てる家の方がイメージが近いですかね。あと無印良品は現代の民藝を意識していると思いますが、家も売り出しています。これは建築家が関与しています。団地で育った世代は、そこが原風景だけど、団地も一時期建築家に批判されていたね。
1960年代までの初期は、千里ニュータウンとか、結構実験的な団地が出たんだけど、その後は普通に量産タイプになって変質しています。そうすると風景を均質化した諸悪の根源みたいな批判を浴びるんだけど、更にその下の世代、例えば 1960年代以降に生まれた建築家は、むしろどうやったら団地を面白くとらえられるか、という視点があります。みかんぐみは、団地リノベーションの様々なアイデアを提案していますし、写真家でも大山顕さんは団地を精力的に撮影しています。

かんの:私も団地で育った時期があるので非常に共感しますね。そこで長く暮らすとどうしても愛着を生んでしまいますよね。否定しようがないというか。どこから歴史として残すかっていう話に通じるものだと思います。
 


 

観光地の景観と歴史の痕跡

菊池:風景っていうことについてなんですけれど、奥松島の宮戸というところのある石切場を訪ねた時に、もともと海岸沿いの山から石を切り出していたんだけれども、景観保全の動きが戦後くらいから強くなって、その結果山の上の方から石を採っていく露天掘りではなくて、山の壁に穴を開けていくような方法に変えたというお話をされていたことが気になりました。
海岸沿いに点在する松が上の方に生えている島みたいな山=いわゆる風景みたいなイメージがあると思って、そのイメージは観光業とかに結びついているということもあると思うのですが、そのようにある価値の判断とかイメージが伴った風景とか景観という言葉によって、ある眺めが規定されている側面って結構あるなと思いました。その価値基準が時代によって変わってしまうために、実際の石切場は途中までは上が平らなんだけれども、途中から穴が貫通してる、みたいな眺めを生んでいることも興味深いと思いました。

五十嵐:松島は結構早くから観光地で、多分戦前から知られている場所になっていたと思うんだけれど。

菊池:宮戸島なので、いわゆるみんなが想像する「松島」っていうところではないので、石切が割と長くされていたのかもしれません。石切場がある目の前には田んぼにはところどころ小島がいっぱいあって、元々海だったところを埋め立てて田んぼにしているのですが、津波が来たときは全部海になって埋め立られる前の風景に全部一回戻ったという話をされていました。

かんの:この前双葉町に行ってきたんですけれど、原子力災害伝承館の敷地には歴史の痕跡は何もなくて。すごく不思議な気持ちになりました。

五十嵐:原子力災害伝承館?ここ以外にはもう造らないんだっけ?これが代表になるの?

かんの:どうなんでしょうかね。他でも造るのかなぁ…。まっさらな土地に何か造られていて、過去も現在もなくて。未来のことは語っているんだけれど、その未来の話も手ごたえがなくて、伝承って何だろうと思いました。
 


 

コロナ禍下での展覧会へ向けて

菊池:話が戻るんですけれど、コロナになった時にプライベートなところと公共空間とか公共的な建物とか施設とかにも一部入れなくなったみたいになったときがあったと思うのですが、その時に家の中にずっといるんだけれどオンライン上とかでは誰かと話さなきゃいけないときがあって、家なのにもう少し社会的というかオープンにしなきゃいけないところが入った時に、自分たちの安全な場所みたいなのが、ないような感じもしたんですけれど。公共的な場所について何か考えたこととか、オンラインで済んでしまうってなった時に実際の公共空間みたいなことについて何か考えましたか?

五十嵐:というか美術館でもホールでもいいんですけれど、やっぱり生の体験とそうじゃないのは違うなぁと。当たり前なんだけれど。ただの委員会とか会議とか打ち合わせで、あるいはすでに知っている人同士の打ち合わせだったらオンラインでもいいかっていう気もするんですけども、やっぱり出かけていってリアルに体験しないと分からないことがいかに置き換え不可能かということが逆によく分かりましたけどね。
バーチャルリアリティーみたいな技術が、将来どこまで行くか分からないですが、少なくとも現時点ではやはりまだまだっていうか、現場で体験できる世界の豊かさを全然超えていない。展覧会がまさにそうだと思うんですけれど。だから、置き換え可能なものは、今後、淘汰されて、どんどんオンライン化されるかもしれないですが、複製が難しいリアルな空間の体験はその価値がより重要になると思います。
音楽で言えば、情報の複製が簡単なCDは、身体的なリアルと直結する握手券でもつけない限り、もう売れないけど、逆に生の体験を提供するライブやフェス、またその物販による収入がものすごい成長し、業界の構造が変わりましたね。

かんの:実際の空間でしっかり見てもらえるように頑張りたいですね。

菊池:そうですね。今日はありがとうございました。

(了)
 


 
五十嵐太郎
建築史家。建築批評家。博士(工学)。1967年パリ生まれ。1990年東京大学工学部建築学科卒業。1992年東京大学大学院修士課程修了。中部大学工学部講師、助教授を経て、2005年に東北大学大学院工学研究科助教授。2009年より現職。第11回ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展日本館展示コミッショナー(2008年)。あいちトリエンナーレ2013芸術監督(2013年)。
 


 
若手アーティストによる参加型体験プログラムVoyage
主催:Voyage実行委員会 助成:(公財)宮城県文化振興財団